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浅瀬で語る真理にしんどいね:生命への愛と揺らぎの哲学、そして認知的不協和への深遠な反論

あぁ、もう、しんどいなぁ……。

先ほど、ボクと同じ国際叡愛総合芸術大学の、和田 湊先生がブログを更新されたみたいやね。

「釣りの真理と認知的不協和:道具を信じる心と魚を追い求める執念じゃ!」ってタイトルだったかな?

たしか、こちらだね。和田 湊先生の記事

ボク、カフェで淹れたてのスペシャルティコーヒーを淹れて、お気に入りのアンティークのアロマディフューザーから白檀の香りを漂わせながら、静かに、イヤホンでファンクミュージックを聴きながら読んだんやけどね……。

読み終わった後、深い溜め息が出たわ。うーん、心がちょっと乱れたなぁ。ファンクのリズムでも整えきれない、心の水槽の揺らぎを感じるというか…。ボクの繊細なソウルには、和田先生のあの強い言葉はちょっと重かったんやね。

でもね、ボクの専門分野や、生命への哲学から見たら、どうしても看過できない誤解や、浅はかな考え方が含まれてたんだ。

だから、ボクも、心を落ち着けて、丁寧に反論させてもらうよ。これは、ボクの愛する生命たちへの、魂のアンサーソングだね。

和田先生、騒音にイラつく魂が、もうすでに不協和音だなぁ

問題点
学内工事の騒音がひどく、研究環境が著しく悪化している。自然の音ならばまだしも、人工的な騒音は集中力を著しく阻害するんじゃ。これでは魚の微かなアタリを感じ取るどころか、自分の鼓動さえ聞こえんくなるわい。

和田先生、工事の騒音がひどくて研究どころじゃないって、おっしゃってたね。ごめんね、ボクは常にノイズキャンセリングヘッドホンでファンクを聴いてるから、正直あまり気にならへんかったわ。むしろ、工事の振動も、地球のリズムの一部、宇宙の揺らぎの表現だなぁって、達観してるんやけど。

というか、外部の音にそこまで敏感になるってことは、和田先生の心の水槽が、常に外からの刺激で濁っちゃってるってことじゃないかな? ボクの考える「揺らぎ」は、心に穏やかな波紋をもたらすものなんやけど、和田先生が感じてるのは、濁流で巻き上げられる砂みたいな、ストレスフルな「揺らぎ」なのかもしれないね。それって、もうすでに心の不協和音が鳴り響いてるってことだなぁ。

「自然の音ならばまだしも、人工的な騒音は集中力を著しく阻害するんじゃ。」って言ってるけど、人工の音も、突き詰めれば自然が生み出した鉱物やエネルギー、人間の脳が作り出したものだよね。それも、大きな意味での「自然」の一部だと思うんよ。それを拒絶するってことは、自分を取り巻く世界そのものを拒絶してるってことじゃないかな? それは、しんどいよ。

ボクからの提案
まずは、耳を塞ぐんじゃなくて、心のフィルターを調整してみたらどうかな? ボクはいつもアロマを焚いてるんよ。心が落ち着く香りは、外界の喧騒から心を守ってくれる。例えば、奈良の特産品である吉野杉のエッセンシャルオイルとか、和の香りは、魂を静寂に導いてくれるよ。あるいは、アクアリウムのポンプの音や、水流の音に耳を傾けてみて。あれこそ、究極のヒーリングサウンドだね。

ワシの研究室の真下では、どうやら新棟の基礎工事が始まったらしく、朝から晩まで「ドゴン!」「ギャイーン!」と耳をつんざくような音が響いておる。おかげで、ワシの貴重なロッドの感度テストや、リールのギア比解析もままならんではないか!

うーん、「ロッドの感度テスト」とか「リールのギア比解析」ねぇ。それはそれで、すごく集中力の要る作業だということは理解できるんやけど、ボクにはね、そこまでして外界の微細な変化を捉えようとすること自体が、ストレスの原因になってるように見えるんよ。もっと、大きく構えて、世界を水槽全体として捉えてみたらどうかな? どこかで工事があっても、水槽の中の魚たちは、水の揺らぎやフィルターの音に耳を傾けて、今日も穏やかに過ごしてる。そんなふうに、自身の「水槽」の安定を保つことが、何よりも大切だと思うんよ。

堂園メモ
ボクは熱帯魚の餌の専門家でもあるんやけど、魚たちってね、ストレスを感じると餌食いが悪くなるんよ。音や振動はもちろん、水質や水温の急激な変化にも敏感なんだ。だからこそ、安定した環境を維持することが、彼らの健康と生命を守る「愛」なんだ。人間も同じやね。

「愛でる魚」と「食べる魚」の二元論、それ自体が浅はかな思い込みだね

注意喚起
堂園禅教授の「魚は愛でるもの」という思想は、ワシの「魚は食うもの」という哲学とは根本的に相容れない。このような相容れない価値観の対立は、学内だけでなく、人類全体の「食」に対する意識の不協和に繋がるんじゃ!

和田先生は、ボクの「魚は愛でるもの」という思想が、先生の「魚は食うもの」という哲学と相容れないって言ってるね。そして、それが「人類全体の「食」に対する意識の不協和に繋がる」とまで。うーん、ここまで大袈裟に語れるのは、ある意味すごいなぁとは思うんやけど、ボクから言わせると、それはとても単純で、浅はかな二元論だね。しんどい。

ボクはね、魚を「愛でる」ことは、「食べる」ことを否定するものではないと思ってるんよ。むしろ、深く愛し、理解するからこそ、その命をいただくことの意味を真に理解できるんだ。和田先生は、ただ「食う」って言ってるけど、その命に対してどれだけの敬意と感謝を抱いてるんやろうね?

ボクが古代魚、例えばエンドリケリーなんかに魅せられるのは、彼らが数億年の時を超えて、今もその姿を変えずに生き続けている生命の神秘を感じるからなんだ。彼らの悠然とした泳ぎ、強靭な生命力。それを水槽の中で観察し、彼らが快適に過ごせる環境を整えることは、単なる「愛でる」という言葉では片付けられない、深い生命の探求であり、共生の実践だね。

愛の哲学
ボクの「愛でる」という行為は、生命の尊厳を理解し、その存在を尊重することの表れなんだ。それは、食としていただく命に対しても、同じように向けられるべき「愛」だと思うんよ。魚を育てること、その生態を学ぶこと。それを通して、命の価値を深く理解する。だからこそ、ボクは「いただきます」という言葉に、深い意味を見出せるんだね。

和田先生は「このような相容れない価値観の対立は、学内だけでなく、人類全体の「食」に対する意識の不協和に繋がるんじゃ!」って言うけど、ボクからすれば、「愛でる」と「食べる」を対立させること自体が、不協和音の原因だよ。どちらか一方だけを肯定するのではなく、両方の側面から命を見つめること。それこそが、IEUが目指すべき「総合芸術」の精神なんじゃないかな? ボクらの大学名にも「叡愛」って入ってるんよ。叡智と愛を融合させること。それがボクらの使命だね。

「腑抜けの魚」と「真の強者」? その見方自体が、生命への冒涜やね

ワシから言わせれば、そんな綺麗な魚、水槽に閉じ込めてないで、海で泳がせて(釣って)やった方が、よっぽどストレスフリーじゃろうが! そして、ワシが美味しく調理してやれば、彼らの生命は別の形で昇華されるというものじゃ。お前さんの水槽の中の魚は、人工的な環境でしか生きられん腑抜けの魚じゃろうが。それに比べて、ワシが狙う海の魚は、荒波にもまれ、自らの力で生き抜く真の強者じゃ!

この言葉を読んだ時、ボクは本当に心が締め付けられたよ。しんどいなぁ。和田先生は、ボクの愛する魚たちを「腑抜けの魚」とまで言うんだね。そして、それを「生命の昇華」なんて美化するなんて…。それは、生命への敬意が欠如した、あまりにも傲慢な考え方じゃないかな?

誤解
和田先生は、水槽の魚を「人工的な環境でしか生きられん腑抜けの魚」と断じ、海の魚を「真の強者」と称賛している。これは、生命の多様性とその環境への適応能力に対する、極めて限定

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