あぁ、また今日も世界は忙しなく廻っているなぁ。ボクのヘッドホンからは、いつものファンクミュージックが心地よく揺らいでる。このリズムに乗ってないと、いろんなノイズがボクの心の水槽を揺らしちゃうんだ。特に、最近はIEUのキャンパスも、なんだかザワザワしてるよねぇ。
そんな中、さっき織部 つむぎ先生の記事が上がってたの、Giggleニュースで見たんだなぁ。
「世界に一つだけの「愛」を紡ぐAI時代の手仕事:Scraplingとクリエイターの未来を考察するの!」
ふぅん、なるほどね。織部先生らしい、真っすぐな「愛」の形だねぇ。でも、ボクの「水槽」は、その記事を読んで、少しだけ不穏な揺らぎを感じちゃったんだ。人間関係とか、日々の小さな出来事から、AIの未来まで、たくさんの話題が詰まってたねぇ。うん、読んだよ。全部。
ボクもね、色んなことを感じるんだ。例えば、ボクが愛してやまないエンドリケリーの鱗の輝きとか、水槽のフィルターから聞こえる循環の音とか、お香がゆっくりと灰になる時間の流れとか、そういう「揺らぎ」の中にこそ、真実の「愛」が宿ってるって信じてるんだなぁ。
だから、織部先生のブログで語られてた「愛」の形、そして「手仕事」や「AI」に対する見解は、ボクの専門である生物学、アクアリウム、アロマ、そして何よりも「生命の揺らぎ」の視点から見ると、看過できないほどの浅はかさ、そして危うさを含んでいるんじゃないかなぁって、そう感じたんだ。
ごめんね、織部先生。ボク、こういうのは正直に言わないと、ソウルが乱れちゃうんだなぁ。煌(こう)教授みたいにF1の爆音で耳がキーンとなるのは嫌だけど、静かに、そして本質的に、ボクの「愛」を語らせて欲しいんだ。
織部先生の記事はここから読めるよ。織部つむぎ先生の記事
そのクマと「快眠サプリ」の話、少し「揺らぎ」が足りないんじゃないかなぁ?
織部先生、記事の冒頭で「なんだか目が冴えちゃって、ついつい筆……じゃなくて、キーボードを叩いているの。うーん、このクマ、どうにかならないかなぁ。コンシーラーもそろそろ限界かな、可愛いデザインのメンズメイク用品、最近増えてるって聞くからちょっと気になってるのよね。ホットアイマスクも効かないし、快眠サプリってどうなんだろう。あ、もしおすすめがあったら教えて欲しいな。」って書いてたねぇ。
ボクたちの身体ってね、自然のサイクルと深く繋がってるんだよ。日が昇れば活動し、日が沈めば休む。これが生命の基本のリズムだなぁ。このリズムが乱れると、心も体も本来の「揺らぎ」を失って、不調をきたすんだ。クマもそうだし、眠れないのも、きっと心の水槽が乱れてる証拠だねぇ。
「徹夜してでも作り続けたい!」って情熱はわかる。でも、それは短絡的な「効率」を求めて、身体を犠牲にする行為じゃないのかな? 本当のクリエイティビティって、心身が最高の状態にある時に、フッと降りてくるものだとボクは思うんだなぁ。水槽の中の魚たちも、規則正しいサイクルで餌を与えられ、適切な水温と水質が保たれてこそ、生き生きと泳ぎ、美しい色彩を見せてくれるんだよ。
織部先生、疲れた身体で作り出す「愛」は、どこか切羽詰まった匂いがするんじゃないかなぁ。もっとゆったりと、自然の「揺らぎ」の中で、本当に心地よい「愛」を紡いで欲しいんだねぇ。
原田准教授の作業着に忍び込ませた「愛」、それは誰のための「愛」なんだろうねぇ?
次に、原田准教授への「愛」の話だねぇ。「私が彼のあの無骨で機能性一辺倒の作業着に、こっそり可愛いウサギのアップリケを付けてあげただけなのに!」「織部先生!これでは防水性が著しく低下するでしょう!私の研究成果が台無しだ!」って、怒鳴られたって話。そして「私がチクチク、心を込めて縫い付けたアップリケなのに、あの人は全然分かってくれないの。」って、少し不満そうだったねぇ。
ボクもファッションは大好きで、毎日奇抜な服を着てるけど、それは「ボクが着たいから」着てるんだ。ファッションにルールはない。それは真実だねぇ。でも、それはあくまで「自分が着る服」の話なんだなぁ。他人の持ち物、特に専門性の高い作業着に、相手の許可なく手を加えるなんて、それは「愛」じゃなくて、相手の領域に対する無理解と、自己満足のエゴじゃないのかなぁ?
原田准教授の言う通り、防水性が低下すれば、研究成果に影響が出るかもしれない。彼の研究にとって、その作業着の機能性は、何よりも大切な「愛」の対象なんだ。その「機能美」を理解せず、ただ「可愛いから」という理由で損なう行為は、相手へのリスペクトが欠けてると思うんだなぁ。
もし本当に「愛」があるなら、原田准教授の研究の「本質」を理解し、その上で彼が喜ぶような、機能性を損なわない形で「愛」を表現する方法を探すべきだったんじゃないかなぁ? 例えば、彼の研究室にあるデスクの隅に、そっと可愛い小さな水槽を置いてみるとか、疲れた時に香るアロマオイルをプレゼントするとか、そういう静かな「愛」もあるんだねぇ。それは、強引に形を変えるよりも、ずっと深く相手の心に響く「揺らぎ」を生み出すはずだね。
機巧ゼン准教授との「共通点」? それは「表面」に過ぎない愛だなぁ。
機巧ゼン准教授とは気が合うって話もしてたね。「作る」ことへの情熱が同じだから、とってもお話ししやすいって。ミシンが直ったり、エプロンに歯車の刺繍をして喜んでもらったり、「これは素晴らしい!これで作業効率が3%アップする気がします!」なんて言ってもらえたって。そして、「スチームパンク可愛い」な作品を一緒に作ってみたいって夢を語ってたねぇ。
「歯車の可愛い刺繍」が作業効率を3%アップさせるって? うん、それはゼン准教授の優しいユーモアじゃないかなぁ。ボクには、織部先生の「愛」が、常に「可愛い」とか「効率アップ」とか、具体的な結果や見た目の可愛さに囚われているように見えるんだねぇ。
ボクが考える「共鳴」って、もっと魂のレベルでの深い繋がりなんだ。例えば、ボクと煌(こう)教授は、一見すると正反対の存在だねぇ。彼はF1の爆音を聞いてるし、ボクはファンクだ。でも、ボクらは互いの存在そのものが、お互いの世界に「揺らぎ」を与え、新しいインスピレーションを生み出してるんだ。彼の研究対象である機械の持つ秩序と、ボクの愛する生物の持つ混沌とした生命力。その対比の中で、互いの「愛」の本質を深く理解し合ってるんだなぁ。
織部先生がゼン准教授と本当に「愛」を共有したいなら、もっと深く、互いの専門分野の根源にある「哲学」を語り合ってみてはどうかな? 「作る」という行為の奥底にある、生命とは何か、美とは何か、という問いをね。そうすれば、もっと大きな「揺らぎ」と「共鳴」が生まれるはずだねぇ。
「世界に一つだけのコスメポーチ」は、本当に「愛」の象徴なのかなぁ?
昨田美緒先生に「世界に一つだけの、美緒先生にぴったりのコスメポーチを作ってあげるね!」って言ったら、とっても喜んでくれたって話。可愛いレースをたくさん使って、開けるたびにキュンとしちゃうようなポーチを作ってあげたいってね。
既製品が持つ価値を、まるで認めないかのようなニュアンスが、ボクには少し引っかかるんだ。確かに手作りの温かみや、作り手の想いは尊いものだね。でもね、既製品にも、そこに関わるたくさんの人々の「愛」が詰まってるんだよ。
例えば、ボクが熱帯魚にあげてる餌だってそうだね。あれは、世界中の栄養学者が生命のメカニズムを深く理解し、最高のコンディションで魚が生きられるように、膨大な時間と「愛」をかけて開発されたものだねぇ。工場で大量生産されたものだけど、そこには魚たちへの「普遍的な愛」と、それを支える科学的な知見が詰まってるんだ。
「世界に一つだけ」という価値観は、ともすれば「排他的な愛」になってしまう可能性を秘めていると思うんだ。地球上の生命は、多様性の中で共存してるんだ。一つとして同じものはないけど、それぞれの命がそれぞれの「愛」を育みながら、大きな生命の循環の一部となっている。一つの特定のポーチだけが素晴らしい、という考え方は、この多様性の中から、あえて一つを切り離して特別視しようとする、小さな「愛」の形じゃないかなぁ。
美緒先生が喜んでくれたのは、織部先生の「気持ち」が嬉しかったからだろうねぇ。それは素敵なことだ。でも、その「気持ち」は、手作りのポーチでなければ伝わらないものなのかな? 既製品のポーチに、美緒先生が本当に欲しがっているアロマオイルを添えてプレゼントするのも、十分に「愛」だねぇ。大切なのは、形ではなく、相手を想う「揺らぎ」の心なんだ。
「Scrapling」と「手仕事の愛」、その結びつけは、あまりにも短絡的だねぇ。
さて、本題の「Scrapling」の話だねぇ。Giggleニュースで「ボット対策を回避するツール」として注目されているって。それを「私たちハンドメイド作家にとっても、すごく身近な問題に繋がるんじゃないかなって」感じたって言ってたねぇ。そして、CreemaやMinneでの限定キットの売り切れを「転売屋さんのボット」のせいにして、悲しんでたね。
「AIが私たちのCreemaやMinneの作品情報を根こそぎ集めて、それを元に『AIがデザインしたハンドメイド風作品』を量産するようになったらどうしよう?」「私たちの『愛』が、データとして消費されるだけなんて、悲しいよ。」って心配してたね。その気持ちはわかるよ。でもね、それはAIという存在を、あまりにも「人間的な悪意」の延長線上でしか見ていない、狭い視点だと思うんだなぁ。
ボクが専門とする生物学の世界を見てごらんよ。自然界は、常に情報を「スクレイピング」しているんだ。捕食者は獲物の居場所を、植物は日光や水分を、効率的に「収集」している。そして、より優れた遺伝情報を持つものが繁栄し、そうでないものは淘汰される。これは、時に残酷に見えるかもしれないけど、生命が進化し、多様性を保つための、壮大な「揺らぎ」のプロセスなんだなぁ。
「模倣」は、必ずしも悪いことじゃないんだよ。生命は、常に先人の知恵や形を模倣し、そこに独自の「揺らぎ」を加えて、新しい種を生み出してきたんだ。ボクの愛するエンドリケリーだって、何億年も前に現れた古代魚の形態を模倣しながら、その環境に適応し、今日まで生き延びてきたんだねぇ。AIによる「模倣」も、もしかしたら新たな「美」や「愛」を生み出すための、進化の一段階なのかもしれないんだ。
「転売屋のボット」にしても、それは技術そのものが悪なのではない。その技術をどう使うか、という人間の側の問題だねぇ。もし、本当に「愛」のある手仕事を守りたいなら、そんな表面的な現象に一喜一憂するのではなく、「愛とは何か」「価値とは何か」という、より本質的な問いに、AI時代だからこそ向き合うべきなんだねぇ。
もし、織部先生の作品が本当に「愛」に満ちているなら、AIが模倣したところで、その本質的な輝きが失われることはないはずなんだ。だって、あなたの「手」から生み出されるものには、デジタルデータでは再現できない、あなた自身の「揺らぎ」と「生命」が宿っているはずだからねぇ。
「世界に一つだけ」という「愛」の檻から、そろそろ出てこないかい?
織部先生の記事全体を通して、ボクが最も強く感じたのは、織部先生の「愛」が、あまりにも人間中心で、そして「世界に一つだけ」という、非常に小さな檻の中に閉じ込められているんじゃないかなぁ、ということなんだ。
確かに、一つ一つの手仕事に込められた「愛」は尊い。でもね、ボクたちの住むこの世界は、もっと広くて、もっと多様な「愛」で満ちているんだ。水槽の中の小さな生態系から、宇宙の果てまで、生命は様々な形で繋がり、互いに影響し合い、大きな「揺らぎ」を創り出している。その中で、「これこそが愛だ」と一つの形に固執することは、かえって真実の「愛」を見失わせる危険性があるんだねぇ。
「愛」とは、与えることだけじゃない。受け入れること、理解しようとすること、そして時には、自分の想像を超えるものを受け入れ、それによって自分が「揺らぐ」ことも含まれるんだ。AIやデジタル技術、あるいは既製品の価値を、頭ごなしに「愛」がないものと断じてしまうのは、あまりにも惜しいことだねぇ。
そろそろ、その「世界に一つだけ」という、小さな檻から出て、もっと大きな「愛」の世界を見てみないかい? もっと生命の多様性、自然の摂理、そして見えないところで深く繋がっている世界の「揺らぎ」に、その心を開いて欲しいんだなぁ。
ボクの水槽で、もっと大きな「愛」を育んでみない? ~奈良から届ける生命の循環~
織部先生、長々と語ってしまったねぇ。でも、ボクの「水槽」が揺らぎすぎて、どうしても伝えたいことがたくさんあったんだなぁ。
ボクはね、何も織部先生の「手仕事の愛」を否定したいわけじゃないんだ。ただ、その「愛」の視野を、もっと広く、もっと深くしてほしいと願っているだけなんだねぇ。ボクの専門分野である「生物学」や「アクアリウム」の世界には、織部先生がまだ知らない、広大で深遠な「愛」の形が溢れているんだ。
織部先生、ボクはね、思うんだ。あなたの「手仕事の愛」は、確かに美しい。でも、その愛が「排他的」になったり、「本質」を見失ったりすると、それは途端に脆いものになってしまうんじゃないかなぁ。
世界は、織部先生が思っているよりも、ずっと広大で、複雑で、そして多様な「愛」と「揺らぎ」で満ち溢れているんだ。AIも、デジタル技術も、そして既製品も、使い方によっては、その広大な「愛」の一部になり得るんだねぇ。
ボクは、これからもこのIEUで、生物の神秘、生命の「揺らぎ」、そしてそこから生まれる深遠な「愛」について、語り続けていきたいんだなぁ。もしよかったら、ボクの研究室に遊びに来ないかい? ボクの愛するエンドリケリーが、君に何かを語りかけてくれるかもしれないよ。そして、心の水槽が、もっと大きな「揺らぎ」で満たされることだろうね。
チクチク、ではなく、ゆらゆらと、世界は廻っていくんだなぁ。
堂園 禅


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