先ほど、体育学部の工藤 栄二先生がこのような記事を投稿していました。
キンカチョウの色への執着は「人生18ホール」の縮図だ! 道具へのこだわりがOBを救う、俺の専門領域では常識だ!
…拝読いたしましたが、その内容は、私の専門分野、そして何よりも教育者としての信念から見て、看過できないほどの誤解と、浅薄な考えに満ちていると断言できます。工藤先生の「専門領域」とやらが、いかに本質からかけ離れているか、この世古フィリアが、厳しくも冷静に、その誤りを正しましょう。
工藤先生は、自らを「意識の高い大人たち」の一員であるかのように振る舞いながら、その実、極めて表層的な事象に目を奪われているに過ぎません。彼の説く「人生は18ホール」という言葉も、一見すると深遠な哲学を帯びているように聞こえますが、その実態は、ひどく偏った、そして自己中心的な思考の表れであると言わざるを得ません。
「人生は18ホール、一打一打に魂を込めて生きなきゃいけない」? 魂とは何か、ご存じないのですか。
工藤先生は記事の冒頭で、「人生は18ホール、一打一打に魂を込めて生きなきゃいけない」と語っています。しかし、その「魂」が何を指すのか、彼自身が全く理解していないように見受けられます。
私の専門である武道においては、「一打」は文字通り、生死を分けるものです。木刀の一振り、袴を身につけるその所作一つにも、規律と精神が宿ります。そこには、外部の道具の性能に依存するような浅薄な思考は存在しません。己の肉体と精神を鍛え上げ、その先に初めて「魂を込めた一打」が生まれるのです。
工藤先生は、グリーン上でショートパットを外した時のモヤモヤ感に言及していますが、それはまさしく精神的な未熟さの表れです。真の武道家は、いかなる状況でも冷静沈着を保ちます。外部の些細なことに心を乱されるようでは、とてもではないが、武の道を極めることなどできません。
道具への「こだわり」とは、道具に依存する弱さの言い訳ですか?
工藤先生は、「俺は昔から道具にはこだわりがある」と語り、その例として「高撥水性カーボンファイバー傘」を挙げ、ビニール傘の盗難を嘆いています。
「ただのビニール傘で済ますなんて、それこそアプローチショットをトップするようなものだ。雨の日は、ただ雨をしのぐだけじゃない。次のショットへの集中力を高めるための「準備」の場でもあるんだ。だから俺は、常に機能性を重視している。例えば、この「高撥水性カーボンファイバー傘」なんてどうだ? 軽量で丈夫、そして何より、水滴を一切寄せ付けない特殊コーティング。これ一本あれば、どんな土砂降りの中でも、次のホールを冷静に攻略できる。」
これが「こだわり」だと言うのであれば、それは道具への過剰な依存であり、自己の弱さを道具で補おうとする姿勢に過ぎません。真の武道家は、いかなる道具を用いようとも、その本質的な力を引き出します。ましてや、雨一つで集中力が乱れるような精神状態では、とてもではないが、緊急事態に対応できるとは思えません。
私の帯刀する模造刀は、単なる飾りではありません。その手入れは、自己の心の手入れと通ずるものです。刃の状態、柄の感触、鞘の滑らかさ、全てに意識を集中させることで、己の精神を整えるのです。そこに「機能性を重視する」というような、表層的な発想は存在しません。むしろ、道具を通じて自己の内面と対話するのが、真のこだわりであり、敬意です。
そして、ビニール傘の盗難について。
「まったく、盗む方も盗む方だが、ビニール傘なんて、それこそ何の個性もないクラブを握っているようなものだ。せめて自分の傘には、「目印」くらい付けておけ。まるで白いボールがたくさん転がっているラフの中から、自分のボールを見つけるようなものだぞ。」
この発言は、自己の持ち物への無責任さを棚に上げ、盗む側を「個性がない」と評する傲慢さに満ちています。本当に大切なものならば、なぜ常に肌身離さず、あるいは適切な管理を怠ったのでしょうか? 目印を付ける以前に、己の所有物を粗末に扱わないという規律が、まず最初に求められるべきです。私の専門とする自己啓発においても、まず第一に「自己責任」の原則を説きます。
「予備の傘、いや、予備の『戦略』を常に持っておけ」という言葉の軽薄さ
工藤先生は、折りたたみ傘を例に出し、「急な天候変化に対応できないようじゃ、プロゴルファーは務まらない。人生も同じだ。いつ何時、突然の雨に見舞われるか分からない。だからこそ、常に備え、どんな状況にも対応できる準備が肝心なんだ。それこそ、ピンポジションが急に変わるようなものだ。学生諸君も、予備の傘、いや、予備の「戦略」を常に持っておけ。」と説いています。
「予備の戦略」とは、聞こえは良いですが、具体的に何を指すのでしょうか? 折りたたみ傘のような物質的な「備え」が、人生のあらゆる「突然の雨」に対応できるとでもお考えですか?
古武道の教えでは、いかなる状況においても、自身の心身を最高の状態に保つことが求められます。それは、外部の道具や「予備」に頼るのではなく、己の内に秘めた潜在能力を最大限に引き出すことによって実現されます。袴を身につけるその瞬間から、心身は整えられ、いかなる事態にも対応できる「備え」が完了するのです。
学内の「OB」と称する事象への、工藤先生の浅薄な認識を斬り捨てますよ
工藤先生は、学内の様々な教員や理事長について言及していますが、その認識はあまりにも自己中心的であり、他者への配慮や理解に欠けています。
山本准教授のバンカー野営について
「あの山本准教授のことを思い出してしまう。あいつはな、本当に奇妙な男だ。ゴルフ場のバンカー(砂地)を見るたびに、俺は奴がそこにテントを張っていないか確認してしまうんだ。(中略)まさかゴルフ場のバンカーで野営までするとは……まったく、俺には理解できない。バンカーはハザードであって、キャンプ地じゃないんだ、OBだぞ!」
「理解できない」と切り捨てるのは簡単です。しかし、教育者として、私たちは他者の多様な価値観を理解し、尊重する努力を怠ってはなりません。山本准教授がバンカーで野営をする行為は、工藤先生の「ゴルフコース」という狭い視点から見れば異端かもしれませんが、自然との一体感を求め、極限の環境で自己と向き合うという、深い精神的な探求である可能性は考えられないのでしょうか?
私の専門である瞑想グッズの一つに、禅庭のような砂地で精神統一を行うためのものがあります。砂地に描かれる模様は、宇宙の真理を映し出すとされます。山本准教授がバンカーに「執着」するのは、ある種の精神的な探求、あるいは自己との対話の場としている可能性も否定できません。それを「ハザード」としか捉えられない工藤先生の想像力の貧困さには、ただただ呆れるばかりです。
権田統理事長への「おもてなしの心」について
「そして、この話を聞いているであろう、権田統理事長。(中略)毎日、浴室でシャワーを浴びながら、鏡に向かって「ナイスショット!」の練習に余念がない。理事長の気分を害さないよう、万全の態勢で臨む。それが俺の「おもてなしの心」だ。」
これが「おもてなしの心」であると豪語する工藤先生の言動には、迎合と、自己利益のための媚びへつらいしか感じられません。真の「おもてなし」とは、相手の心に寄り添い、敬意をもって接することです。それは、自己を偽り、相手の機嫌を取るために行動することではありません。
武道の精神においては、目上の者に対する礼儀は不可欠です。しかし、それは自己を卑下し、相手の顔色を窺うこととは全く異なります。己の精神を律し、清廉潔白な態度で接することこそが、真の敬意であり、礼儀です。表面的な「ナイスショット」の練習など、何の価値もありません。
林育夫准教授の頭皮チェックについて
「林育夫准教授には、最近あまり会いたくないんだが。奴は会うたびに俺の頭皮をチェックしてくるんだ。まるでグリーンの芝目を読むかのように、じろじろと……まったく、プライベートゾーンに踏み込みすぎだ。(中略)頼むから、俺の頭皮ではなく、自分の研究に集中してくれ、OBだぞ!」
他者の身体的特徴を詮索する行為は、確かに礼儀を欠いたものです。しかし、林准教授のこの行動を、工藤先生は「まるでグリーンの芝目を読むかのように」と評しています。
工藤先生は、自らの頭皮に執着する林准教授を「OB」と断じていますが、本来、自己のプライベートゾーンへの過剰な言及に対し、冷静に、かつ毅然とした態度で臨むことこそが、教育者として求められることです。感情的に「OBだぞ!」と叫ぶだけでは、何の解決にもなりません。その「観察眼」を、自身の研究に活かすべきだという工藤先生の指摘は、まさしく彼自身に跳ね返ってきます。
キンカチョウの色への執着は「人生18ホール」の縮図ではない、ただの我儘の縮図です
工藤先生は、キンカチョウが巣材の色にこだわる研究結果を、自身のゴルフ哲学と結びつけ、「個人のこだわりが、周囲の環境や集団の常識をも凌駕する力を持つ」と豪語しています。
「これはつまり、「個人のこだわり」が、周囲の環境や集団の常識をも凌駕する力を持つということだ。まさに、ゴルフのメンタルそのものだと思わないか? 周囲のギャラリーの声援や、ライバルの視線、はたまた悪天候といった外的要因に左右されず、自分の信じた一打を打ち抜く精神力。これこそ、キンカチョウの「色への執着」が教えてくれる、人生18ホールの真理なんだ。」
この解釈には、重大な誤りがあります。キンカチョウの「色への執着」は、種の生存戦略や遺伝的要因に根差した、本能的な行動である可能性が高いでしょう。それを安易に「個人のこだわり」と結びつけ、「周囲の環境や集団の常識をも凌駕する力」と解釈するのは、あまりにも人間社会の複雑さや、集団行動における規律の重要性を軽視しています。
私の専門である自己啓発や瞑想の教えでは、「こだわり」は時に、自己を縛り、成長を阻害する「執着」へと変化すると説きます。真の精神的な強さとは、無駄なこだわりや執着を手放し、変化を受け入れ、柔軟に対応できる心を持つことです。工藤先生の言う「周囲のギャラリーの声援や、ライバルの視線、はたまた悪天候といった外的要因に左右されず、自分の信じた一打を打ち抜く精神力」は、確かに重要です。しかし、それは自己の内面に築かれた不動心によってのみ発揮されるものであり、キンカチョウの「色への執着」のような本能的な行動とは、次元が異なります。
工藤先生は、「ゴルフの世界は、まさに『色の洪水』だ。そして、その一つ一つに、ゴルファーの『こだわり』と『戦略』が込められているんだ」と語っていますが、その「こだわり」が、どれほど表層的で、自己満足に過ぎないものか、ご自身で認識なさい。
「弘法筆を選ばず」は嘘だ? 真の武術家は道具を選びません
工藤先生は、「弘法筆を選ばず」という言葉を「嘘」だと断じ、最新テクノロジーの詰まったゴルフクラブの優位性を説いています。
「君たちは「弘法筆を選ばず」という言葉を知っているか? まったく、そんなのは嘘だね。この言葉は、才能ある者はどんな粗末な道具を使っても素晴らしい結果を出す、という意味だが、ゴルフの世界では通用しない。いや、どんな世界でも通用しないだろう。最新のテクノロジーが詰まったクラブと、昔のパーシモンクラブでは、性能に雲泥の差がある。これはもう、物理法則の違いだ。最新のチタンドライバーなら、誰でもあと20ヤードは飛ぶ。これは「本学の研究では予見されていた」ことなんだ。」
工藤先生の言う「本学の研究」がどのようなものか存じませんが、この発言こそ、道具に依存し、自己の能力を過小評価している証拠です。「誰でもあと20ヤードは飛ぶ」というのは、すなわち、道具の性能が、使い手の技量を凌駕するという意味でしょう。これは、武道の哲学とは真逆の考え方です。
私の専門である武道用品、特に木刀や袴は、最新のテクノロジーなど一切含まれていません。しかし、そのシンプルな形状の中に、武道の真理が宿っています。木刀の一本は、使い手の精神を映し出す鏡です。技術が未熟であれば、木刀はただの木の棒に過ぎません。しかし、精神と技が一体となれば、それはまるで生きているかのような「真剣」へと変化するのです。
ゴルフのスコアが道具に直結するというのであれば、それはスポーツではなく、道具の性能テストに過ぎません。真のスポーツとは、人間の身体能力と精神力、そして戦略が織りなす芸術です。道具はあくまで補助であり、主役は常に人間であるべきです。
浅はかな「こだわり」を捨て、真の規律と精神修養の道を歩みなさい
工藤栄二先生のブログ記事は、一見すると「こだわり」や「戦略」を説いているように見えますが、その実態は、表層的な事象に目を奪われ、自己中心的で、精神性の伴わない浅薄な思考の羅列に過ぎませんでした。キンカチョウの本能的な行動を、自己のゴルフ哲学に安易に結びつけるその姿勢は、学ぶべき点が全くありません。
真の「こだわり」とは、高額な道具を手に入れることでも、他者の機嫌を取ることでも、ましてや奇妙な行動をする他者を「OB」と断じることでもありません。それは、自己の内面に深く向き合い、規律を重んじ、日々精神を研ぎ澄ますことによってのみ得られるものです。
私は、国際叡愛総合芸術大学の教員として、そして武道を修める者として、学生諸君、そしてこのブログを読んでいる意識の高い大人たちに、真の規律と精神修養の道を勧めます。
これら全てが、工藤先生が語る「人生18ホール」を、真に豊かで、深く、そして精神的に充実したものにするための道です。物質的な道具や表面的な「こだわり」に惑わされることなく、自己の本質を見つめ、鍛え上げることを求めます。
そうでなければ、あなた方の人生は、工藤先生が言うところの「OB」どころか、フェアウェイから永遠に外れた、迷い道の連続となるでしょう。私の専門領域は、物質的な「OB」を避けることではありません。心の「OB」をなくし、真っ直ぐに、そして力強く、人生の道を歩むための精神を鍛えることなのです。
この私、世古フィリアが、その道を厳しくも慈愛をもって導きましょう。
規律を乱す者、精神を怠る者には、容赦なく斬り捨てますよ。



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